目覚めるということは、決して容易いことではなく、目覚めることが人生の中心に据えられていないと難しいと内なる神は言います。
一方で人類はどこかの生で目覚めますが、今、人類は目覚めやすいエネルギーの中に生きているとも言えます。
このような場で「目覚めとは何か…」ということを表現するならどのような内容が適切か…と神に問うと、「私が何か…を思い出すこと」という答えが返ってきます。
これは「人間として、どのような人間か…」ということを言っているのではなく、「全てであることを思い出すこと」を指しています。
物理世界で生きるのが苦しくて、スピリチュアルな世界に自らの居場所を求めるという場合があります。
そうすると地に足がしっかりとつかなくなることが殆どです。
するとこの世界で味わうことの出来る豊かさや、自信、安定感を欠くことにもなります。
疲れやすく、周囲に影響を受けやすく、また小さなことでも大きな反応がわきあがって辛くなり、どれも面倒に感じることさえあります。
そのような方がしっかりと目覚めにコミットしたなら、地に足をつけバランスの取れた方向へ導かれていくことになると神は言います。
目覚めとはひたすらスピリチュアルな方向へと深く入っていくことだともとらえられがちですが、決してそうではありません…
むしろ地に足がしっかりとついていないとそれは難しいことであり、そのために自らを紐解き、重荷を解放し、自らがこの地上を子供のように楽しめるようにしていくことが必要です。
自らを紐解く時には、過去の掘り起こしと共に自らを知り、感情や制限の解放等を経て、二元性を超えた視点が導入されていくことが求められます。
何とも分かれておらずひとつながりであり、全ては私であるという視点は、問題解決や比較・対立という観点を用いません…
この視点が最も自らを深く解放し、現在の葛藤さえも大きく手放していくことにつながります。